石の話し
世界一の磨崖彫刻
この前、新聞に「忘れられた英雄を彫る」と言う見出しで、合衆国サウスダコタ州カスター.ブラックヒルズにある花崗岩の岩山に制作しているクレージーホース酋長の顔の部分が完成した、と報じられていた。 この計画のことは1993年にも新聞紙上で大きく報じられていたので良く覚えていた。 5年前の新聞に載っていた写真では顔の部分はかろうじて鼻や目がここだと分かる程度の粗彫り段階であったのが今回の記事の写真ではリアルに表現されたクレージホースの顔が完成していた。
1939年のこと、彫刻家のコジャック・ジョ−カフスキ−の元に、一通の彫刻の依頼の手紙がとどいた。 差出人はスー族の長、スタンデイング・ベア、内容は「私達は、白人に、インデイアンにも偉大な英雄がいることを知ってもらいたい、その方法として、岩山にクレ−ジ・ホ−スの巨大な石像を彫ってほしい」と言うものだった。 途中、大戦が入り、コジャックが依頼主のネイティブ・アメリカンの酋長の願いをかなえるために岩山に彫刻を始めたのは1946年だった。 構想は、クレ−ジ・ホ−スが馬にまたがり手を前方に差し出している姿を、岩山全部をつかって丸彫りしてしまおうと言う、壮大なものだ。 始めから、彼は自分の生きている内には完成しないと思っていた様だったが、事実、彼は1980年に74才で亡くなって、その後は、妻のル−スと7人の子供達が彼の志を受けついでいる。 制作費は、見物にくる人々からの細々とした寄付金や見物料(7ドル)以外にはなく、政府からの援助金は依頼主の志を尊重するコジャックは拒んだ。
岩山を像の輪郭にあわせ、いらない部分を削岩機で穴をあけ、ダイナマイトでふきとばす、そして細部をしあげていく、と言うものだ。 スケールが大きいだけに制作のスピードはなかなか捗らないのだが、ル−スはコジャックが生前口癖の様に言っていた、ゆっくりあわてずにやれ、そうすれば失敗しない、と言う言葉をまもり、毎日、彫刻にとりくんでいる。
と言うのが以前の新聞記事からのあらましです。 その後、ルースはコジャックがやっていた頭部と胴体とを同時に彫って行くやり方から頭部だけを先攻させて制作した。 その結果頭部が完成した。 それはルースに計算があって、顔が出来れば見物人の数が増えるだろうと言うものだったが狙いは成功して、見物人は年間、130万人から200万人に増えた。
この壮大な計画は何時終わるかわかりませんが、岩山の馬上姿のクレージーホースの梺には文化・研究施設が作られてこれらをすべて北米のネイティブ・アメリカンに寄付されると言います。
クレージ・ホース石像の完成予想図
クレージ・ホース石像の完成予想図
皮肉にも、クレージー・ホースの巨大石像から東へ、約20キロメートルほどの所にはラッシュモア山があってこの観光地には映画「北北西に針路をとれ」にも登場した、米国4大大統領の頭像があり、これも岩山を彫って作られています。 この石像は、ガッツォン・ボーグラムというエネルギッシュな彫刻家が成し遂げた大事業です。 ボーグラムは、デンマークを難民のようにして脱出してきた一家のアメリカでの二番目の男の子としてアイダホの丸木小屋でうまれました。(1867年3月17日) この一家の貧しさは並み大抵のものではなかった様です。 12才の頃、全寮制の学校で偉大な画家の話しを聞いたり、模写、写生などを教えられた事がきっかけで自らも意欲的に絵を描く様に成り、14才の頃には自分自身の才能を確信して画家になることを決心したそうです。 その後の自分の人生を積極的に切り開いて行くボーグラムの活躍はめざましいもので、大統領との喧嘩でもひけをとらない一本気な性格を終生つらぬいた様な人です。 ボーグラムの晩年の大プロジェクトが4大大統領の巨大石像です。 反面、KKK団から資金援助を受けたり、南北戦争当時の様な時代気分のままの傍若無人さマイナス・イメージとしてとらえられています。 かのイサム・ノグチが美術学校の先生の紹介でボーグラムのアシスタントをしていた事がありますが、そのときボーグラムは「イサムは決して彫刻家にはなれないだろう」と言ったことが伝えられています。 この様なエピソードはどのような状況で言われたかが分かりませんが、イサムが世界的な彫刻家になった事は事実です。
資料:朝日新聞/1993.1.17 京都新聞/1998.10.20 |
「大統領を彫った男・ガッツォン・ボーグラム伝」H&A・シャフ著.土井享訳 新評論社 |
石のコレクター 木内石亭
石の長者と呼ばれた木内石亭は元来裕福な、なに不自由のない家に生まれて、その富にあかして、終生奇石の収集に徹した、数寄者であったそうです。 江戸時代も後半に成ってくると様々な文化が花開いた時代なのかと思わすのに十分な人で、あちらに奇石があれば出かけ、こちらに奇石があれば人をやって手に入れると言う風に集めているうちに、そのコレクションは増え、またその名声も全国各地に知れ渡る様になったと言います。 彼が書いた「雲根志」と言う書物は、同好の志の開拓にも一役かった様で、次第に珍しい石の愛好家が全国にも増えてその交流も盛んになっていったと言われています。 石亭は自ら「石のほかに楽しみなし」と言い、また「我等生涯石に心魂をなげうち、実に菽麦もわきまえざるみとして六十余州の人に知られ、高位高官の尋にも預かるは、石の徳ならずして何ぞや」と書き残しています。 石亭が集めた石は、約2〜3千品と言う事らしく、中身は鉱石類、愛玩的な石、考古資料などの種類で、その中から彼のお気に入りを百選び、名画工にその図を写生させ「百石図巻」として残しています。 しかし、石亭死後はそのコレクションは散逸してしまい、草津市の琵琶湖湖畔に程近い家の跡には石碑が残るだけですが、一部のコレクションは栗東町の隣の石部に石亭の信奉者の服部未石亭の家があってここで子孫の人がそのコレクションを守っています。 一般に鑑賞出来るところは、滋賀県栗東町の歴史民族博物館にあります。
石亭像の掛け軸
展示品(鮓答、馬糞石)
石亭像の掛け軸
展示品(鮓答、馬糞石)
博物館に展示されている二つの石コレクション、鮓等(馬の腹から出た石)と馬糞石(ノジュール)は名前が古めかしくて面白い。
資料:「木内石亭」斎籐忠著、人物叢書
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2009年の1月朝来市の多々良木にある「あさご芸術の森美術館」に行った帰り道、史跡生野銀山に寄り道しました。見学コースの一つの「生野鉱物館」に入館し夥しい数の鉱物標本を見ていた所隅の方に「木内石亭の展示ケース」を見つけました。上記の石亭の記事を書くために色々調べていた時にこの鉱物館のことは見た記憶がありますが時間が経ち忘れてしまっていました。 ですからこの時に出会った石亭のコレクションは全く偶然に見つけたと言えます。 |
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「錫リン脂 、これは現代では「輝安鉱」と言われる。 |
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天狗の爪 |
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石について
世界で一番古く書かれた石に関する書物は「石について」と言う古代ギリシャのテオフラスタス(BC372〜287年)によってだと言われています。 テオフラスタスはアリストテレスの弟子であったのですが同じ時代に宝石や鉱物に関する本を書いた人が他にも19人もいたらしいのですがそれらの本は残っていないのです。 ところが古代ローマのプレニウス(AD23〜79年)がそうしたギリシャ人達の残した文化をもとに大著「博物誌」にまとめ後世に残しています。
天然磁石--この石は「生きた鉄」と呼ばれた。 この種の石はマグネシア地方(ギリシャ北部)、カンタブリア地方(スペイン、ピスケー湾岸)から産出します。 建築家、ティモレスはアレキサンドリアのアルシノエ神殿に鉄製の像をあたかも空中に浮かんでいる様に見せるために神殿を改造していた。 だが、建築家とプトレマイオス王の死でこの計画は中断した。(現代のギリシャの彫刻家のタキスは鉄製の球体が空中に浮かぶ一連の作品を制作している)
サルパグス石--トローアドのアッソスに産するこの石は、石灰岩の一種であるが、これで作った棺に納められた死体は40日間の内に解けて歯のみしか残らないと言われている。 同種の石はリュキアや東方の国にも見つけられて、生きている人間んでさえも、この石に触れると体を食い荒らされると言われている。(日本には殺生石と言う話が伝わっていて、芭蕉の奥の細道にでてくる)
ペンギテス--白雲母とか発光石とかよばれ、ネロの時代にカッパドキア地方から発見された。 半透明の大理石の様な石で発光した。 皇帝ネロはこの石を使って神殿を建造させたが昼間、窓を閉めても内部は石が発する光で明るかった。
ピュロス王の宝石(瑪瑙)--この瑪瑙の切断面には9人のミューズと竪琴を手にしたアポロンの姿が見える。 これは人の手によるものではなく石の石理による自然界の業なのだ。(ダビンチの手稿に、風景画を描きたい時に様々な種類で出来た石の壁面を見ていると、そこに変化に富んだ山、川、樹、等々や場合によれば戦闘場面さえ見い出すだろう・・の記述を読んでシュールレアリズムの画家、マックス・エルンストはフロッタージュ技法を発見した。 あるいは、心理学者のロジェ・カイオワの著書「絵のある石」。 トスカーナ地方特産の「フィレンツェ大理石」)
資料:「鉱物」書物の王国6、国書刊行会/「石の分明と科学」中山勇著、啓文社/「おくのほそ道」杉浦正一朗校註、岩波文庫/「レオナルド・ダ・ビンチの手記」杉浦明平訳、岩波文庫




「錫リン脂 、これは現代では「輝安鉱」と言われる。

天狗の爪
