江戸時代には富士山信仰が盛んで様々な富士山が描かれています。その中には「二見浦富士図」の様にお目出度い図柄も幾つかあります。二見浦の夫婦岩と富士山と日の出の三点のそろう図が成立するのは夏至の頃でないとダメだそうで、初日の出を拝もうと、この図を期待して二見浦へ行っても見えません。 現代でも条件が良ければ富士山は見えるそうで夏至にはカメラマンのレンズの砲列が夫婦石の見える所にはできるそうです。 これなども人工物ではないにしても「レイ・ライン」と言えそうです。
「太陽の道」に関して大谷幸市氏から次のようなメールを頂きました。
「太陽の道」の記事もあり大変興味深く思いました。この北緯34度32分のラインに対し、渋谷茂一氏はそれに並ぶ遺跡群はギザギザで一直線を形成していないことを発表し、朝日新聞に取りあげられ、一躍有名になりました。しかし、一直線は2地点を結ぶことで確保されます。私は北緯34度32分の「太陽の道」は、『日本書紀』の書く倭姫巡行潭、つまり鏡をもって伊勢の地へ行ったこと、これには重要なことが隠されていると考えております。それは斎宮の造営です。この斎宮と三輪山の麓にある檜原神社を結ぶ一直線が、いわゆる「太陽の道」です。もっとも必要なことは、一直線形成の動機と意味です。なぜ私たちの祖先は、目に見えない線(私は空間構成と呼んでいます)で由緒ある山や遺跡、神社などを結んでいたのでしょうか。その動機の究明が急がれます。
なぜなら、アカデミズムは、古代のそのような測量を裏づける文献史料がないということを理由に、この問題を避けて通っているからです。また、この問題がアマチュア主導で行われていることが気障りであることは否めないでしょう。
(2009/10/18)
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大谷氏の著書「古事記に隠された幾何学」に、太陽の二至二分を基準とする山立てによる測量法を小川光三・大和岩雄両氏が指摘しているが、古代の人がなぜそのような測量に執着したか、と言う疑問が残る。と言っています。手口は分かるが動機はなにか、と言う事でしょうか。
そこで再び「太陽の道」を辿ってみたいと思います。写真家の小川光三氏が「大和の原像」(大和書房/1973年)で発表した、古代祭祀跡が北緯34度32分のライン上に並ぶ「太陽の道」説が、「知られざる古代」と言うNHKのテレビ番組で水谷慶一ディレクターが小川説を再編集して放送したことから広く一般にそのラインの存在が知られる様になった。と言う様に石楽亭は考えています。放送になった内容は「知られざる古代、上・下」(水谷慶一著、NHK出版、1980年)として出版されています。
小川氏が「大和の原像」の冒頭の”独白”で本書を表した心根を書いています。小川氏の子供のころ手伝わされた仏像の写真撮影現場は照明機材など未発達で大きな鏡で太陽光を反射させ薄暗い堂内の仏像を照らす役をやらされた。今の機材の発達からは思いも及ばないし素人でもシャッターを押せばそれなりの写真が撮れる。プロとしての自分は写真技術を駆使してアマと差をつけることではなく撮る対象のより深い理解からくる内面の充実が写真にでることを望む。小川氏の言葉をかりれば、”カメラという非情なメカニズムは、また一面撮影者自身の内面性をも端的に抽出するという非情性を持っていて、例えば同じものを同じ角度から撮影しても、撮る人によって全く異なった結果を見せるものである。他人の心にも共感を呼ぶような作品を得るためには、被写体とカメラと自分自身の一体化、つまり一如にたるほかのないことをようやく知るようになった。”そこから小川氏の撮影フィールドである飛鳥の古代の遺跡と伝承や神話のより深い理解を求める内に次第に遺跡の配列に何らかの法則があることに気づき紀行文のようなアプローチで本書にまとめたそうです。実験考古学?と言う手法で古代史の充実に寄与できればと言う思いでしょうか。
その法則とはなにか、古代からの言い伝えに、「大和に住む人々の生活の原点は、三輪山の日の出と二上山の日没にある」と言う事がある。カメラマンとしての小川氏は「三輪の日の出」と言うテーマに取り組んだ時、どこから山をカメラで狙うと最高の写真になるか、何時の季節でどこからのアングル(角度)がいいかと言う事が問題になると言います。山の形が一番に神南備らしく見える地点からすると時期は春分、秋分の三輪山に昇る朝日が一番さまになる。農作業にとって春分は種を蒔く時期の決定に不可欠で、一年の農作業の開始を計る重要なタイミングです。季節を計るための目印となるなにか、に気づいた時に今まで目に止まらなかった直線が目に見える様になったと言う。その発見と測量のことは「大和の原像」に詳しく書かれていますが、東から伊勢の斎宮跡、かなり距離をおいて、棒原区長峰の環状列石、春日の宮天皇妃稜、天神山山頂、卷向山頂、三輪山の北にある檜原神社、西へ行くと,国津神社、最近,土器の発見で卑弥呼の墓説が浮上してきた箸墓古墳、3.1~3.7キロの間隔で次々神社が続き、二上山の北の穴虫峠にあたり、大阪に入り、日置荘、大鳥大社、淡路島の伊勢の森へと続く直線があげられています。春分の太陽を祭祀する場所を同じ緯度線上に辿ることが出来ると言う訳です。
鏡は太陽の象徴であるのですが、大和岩雄著「天照大神と前方後円墳の謎」には太陽の”力”の認識の表現として再生復興の神話の洞窟と女性の子宮のトポリジーや空間の把握として日のたてしや日のよこしと言った概念などが語られています。春分の時期をを正確に見極めることはは稲作において重要な技術であります。信仰と科学技術(天文や測量)の融合した姿がここにあるように思います。崇神天皇の時代に大和の国が律令国家としての体裁が出来上がってくると言う事ですので、国の基盤は稲作であり土地の整備であったり暦の制定などは重要な事業だったことでしょう。
中国からたぶん陰陽道のような思想も入ってきていたかもしれません。易や天文、暦、時刻、など国のなかで共通の価値観で人々が動く規則が重要になってきます。
博識でも研究者でもなくオタクでもない石楽亭の浅い知識でここに挙げた書物の内容を理解するのもやっと言う奥深いテーマです。
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大鳥大社の(堺市西区鳳北町北緯34度32分の線上)
祭神は倭建命(日本武尊) |

境内に立っている倭建命のちょっとオッサンくさい銅像。
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拝殿と本殿 |
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東征を命じられた倭建命は伊勢をおとずれて叔母の倭姫命から草薙の剣を授かる。東征は成功し帰路の途中倭建命は伊吹山の神と対決し重い病を得てしまう。危篤状態で詠んだ歌が、 「倭は 國のまほろば たたなづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし」や「神風の 伊勢の海の 生石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ」など4首と言われている。
”やまとはくにのまほろば”と言う言葉を聞くと胸にせまる響きがあります。”神風”なども悪いイメージもありますがいまだ力を失っていない言葉です。
白鳥に姿を変えた倭建命は亀山あたりから大和へ向かって飛び、羽曳野の地に降り立ち、最後は堺市の鳳に着いたということです。羽曳野市軽里(北緯34度33分)には白鳥稜があります。因に、羽曳野市から柏原市の丘陵地はブドウ栽培が盛んでこの歴史は非常に古く古墳時代からとも言われています。 |

伊勢の森神社の拝殿(北緯34度25分)、東を向いている。
丁度写真を撮って帰りかけたときにお参りの人がやってきたのでお祭りのことを聞いてみた。梯子獅子と言って桜の花の頃に、本殿横から参道に綱を張り村の人が獅子舞の姿で綱渡りをすると言う。布団だんじりも出るそうです。
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花遍路43番札所(伊勢の森神社)スタンプ台 |

本殿に向かって左側に一対の大きな岩がある。2009年12月13日ほぼ正午ころの太陽が巨石の後ろにあった。
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参道入り口の鳥居、額に額伊勢神社の文字があった。
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淡路市舟木にある石神神社(北緯34度32分)入り口に立てられている説明板。
案内板にある、「日の神の信仰」には北緯34度32分の
「太陽の道」がある事がNHKテレビで放送された事が書かれている。
「祭」日の神として天照皇大神と大日如来が想定されお祭りされている。
「日を迎える座と日を追う座」日を迎える(朝日に向かって祭事をする)のは男が行い、日を送る祭事は女が行う。当座は日を迎えるので男が行うため女人禁制であり今も守られている。 |

女人禁制の石碑、鳥居の左横にある。
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岩組の手前には瓦屋根があり、その奥の岩屋に小さな社がしつらえてある。ほぼ南の方向を向いている。 |

伊弉諾神宮と二至二分の太陽の方位にあたる主要神社との関係図
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「伊勢へまいらば淡路をかけて 淡路かけねばかたまいり」と言い習わされてのは伊勢の祭神天照大神(アマテラス)の両親である伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)が淡路島の多賀にお祀りしてあるので片方だけではいけないよ、と言ったものです。
伊弉諾神宮(北緯34度27分)は兵庫県淡路市多賀にあります。鳥居をくぐり進むとすぐに左のような日時計が目に入ります。
伊勢神宮と同じ緯度線上に位置します。
石碑の言葉、伊弉諾神宮によればアマテラスは朝日の神格で夕日の神格がイザナギとされています。そして、冬至と夏至の朝日と夕日の方向に主だった神社が存在するということです。それはとりもなおさず伊弉諾神宮は国産み神話のように日本の中核の島と言えると言う事です。
伊勢神宮と伊弉諾神宮の中間には飛鳥の宮藤原京が営まれていた、とも書かれています。 |
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左の写真の様な不思議なカタチのモニュメントがやはり境内にあります。制作者が確かなことは分かりませんが、西宮を拠点に沢山のパブリック・アートを制作した彫刻家の制作になるものだと思います。 |